再開は始まった
<1>
男は静かに、息を吐く。
体を起こす動作は、ひどく造作も無いことだった。何かあるわけもない。身体の構造を無視することもない自然な行為であって、妨げもなく実行できる。ただ意志ひとつで動く。簡単に、単純な思いで。そこに苦痛などどこにも、別にどうということも――ない。痛みはない。重い、と感じたわけでもない。意識自体に、だるさはあったのかもしれないが。それは――自分の身体に他ならないか。
僅かに彼はそこで、上向いた。遠くだった。知っている空が前面に。濁りきった配色が、端から端まで続く天上を認知出来る。視覚はある。
彼の目は、真っ先に開いていた。起き上がる前に開いていた。それから上半身を持ち上げた。それだけだった。閉ざされたように暗い世界から、いま目に見える世界に移るのは一瞬のことで、考えていたことはない。そこを、思い返すという事はおかしいのだが――感覚もなく、あらゆる行為が不可能なそこを…意識などあるはずもない――あるはずもないのに思い返すというのは、矛盾してはいないか。
答えはあった。まあ都合良く勝手に、即席で作り上げたイメージだということ。
滑稽だと。しかし笑うことなど出来なかったが。彼の口は、微かに上下が離れただけのことだった。
衝動を起こす感慨は、いまだ無かった。見覚えを感じただけの空は、特に惹き付けられる魅力を感じるわけでもなく、することがなくぼんやりしているように、呆然と眺める形だけで、彼はそこを仰いでいた。
雲は薄く暗く、全体に滲みこむように広がっていて、見る限りは雨が降り出さんばかりの模様だった。その上空は時折明滅し、地にも響く無気味な唸りを何度もあげる。
それが、いつもだった。彼は思う。雨は降らないだろう。しかしとにかく暗い…いつもなのだから。
視界一面が魔界の空であることを、彼はしばし眺めることで、やがてほどなく思い出した。
「魔界…」
魔物の住まう世界。その世界に青い大海原は無く、また澄み渡る高さを持った蒼空も無く、大地の大半は常に枯渇している。どこを見ても美しい緑など点も確認できず、だだっ広い荒野と赤茶けた丘陵ばかりが、嘆かわしい裸身を晒す。くぼ地の湖沼地帯は底まで汚泥に満たされていて、魔物といえど、好き好んで寄りつこうとするものもいない。それらを通り抜ける風といえば、不機嫌で猛々しいまでに吹き荒れ、そしてある日突然、無言の沈黙を決め込む。
「魔界か…」
思い出せば早い。昨日――とも言わない。つい先刻のように、鮮明に思い出せる。なぜここにいるのかも、彼は理解できる。何がここであったのかも、良く分かっている。実際、どれだけ時が経っているのかは、分からないが。ゆるりと彼は、首を巡らす。
周囲には今にも倒壊しそうな石の円柱が幾つかあって、既に倒れている柱も幾つかあった。彼の下は、剥き出しの地面とさほど変わりはないが――石床となっている。いずれも、破損と風化が見えて著しい。
「ここからか……そうだな…」
彼は思案も途中につぶやいた。現況を皮肉と取って、あてがわれたに相応しいと納得もする。しかし、口元に笑みを浮かべる力はまだ無く、彼は少しだけ俯いた。
その場所はほぼ、彼のついさっきような記憶と、変化のある様子ではなかった。元々それ以前より、同じような状態でもあったが。
彼がいるのは、神殿か、何かそれに準ずると思しき建物の跡地だった。
彼が以前――場所として選んだことに、深い理由は特にない。ただし、無作為に選んだわけでもなく、相手の通過地点という理由がひとつあった。ここを通るのが、一番の近道となるはずだった。
今はもう、崩壊している天空魔城へ勇者軍が向かうには、必ずここを通るはずだと、彼は以前に考えた。その場所だったここは。雌雄を決した場所。
記憶と違う部分…倒壊した柱が一本、増えていること。…自分以外誰も、いないこと。
彼はそして、床についている右手の指を折り、内へ曲げた。下全面を覆っている、ざらつく砂塵と砂利の感触は不快だったが、そこから手を離して、わざわざ払い落とすことはしなかった。
年月が経ったとされる――この場所は、ずっとそんな状態が継続されていた。あれからどれくらい経ったかなど、周りの場景で知ることは出来ない。
歴史は長らくそこに、語られていなかったから。完全に忘れ去られてから、過ぎ去った歳月を知る者はいないだろう。彼も、知らない。知るつもりも無い。この世界の者ならば、誰でもだろう。その世界には、不必要なものでもあった。埃すら逃げ、移ろうもの。
荒みきった魔界の風は、吹けば常に乾いた大地の黄塵を撒き散らすもので、遠くを見やればそれが色としてぼんやり確認できる。留まっていれば数時間もするともう、砂ぼこりが纏わりついてくる。
それを何気なく思い、自分の姿を彼はようやく確認した。両手両足、繋がる胴から胸部にいたるまで。
それから、きれいなものだと彼は思った。それらには、塵や埃はまだ被っていなかった。さらに傷もなければ、不思議と血の跡すらも無いのだから。
その点以外…後は何ひとつ、変わっていないようだったが。以前、のままの格好で――鎧は原型をとどめておらず、衣服も傷があった部分を分かりやすく覗かせている。
ただ、顔だけは映すモノでもなければ確認しようがないのだが…しかし、分かる長い黒髪と、額に馴染んだサークレットがあるのだから、まあ以前の自分のそれがあるのだろうと、彼は思った。
「自分で、良かったか…?」
彼はふいに、そこでひとりごちていた。やや俯き、嘲笑…それも自嘲が、その顔に浮かんだ。
――もしも、自分の姿でなければ。
彼は心中で言葉を続けかけたが、次の瞬間には口を噛んで笑みを殺した。…どうだと言う?
痛みは、苦しみよりも軽いものだと。分かりやすいだけのものだと。右拳を固く握る。そして、力を抜いた。赤い血が数滴、落ちた。
こころもち顔を上げ、息を絞った。吸気から呼吸を整え、彼は静かにまぶたを下ろす。
それは考えることを、たとえ一時にしろ忘れるためでもあった。後は、身体が知っていた。似た世界ならば、より感じることが出来るだろうと。全て無意識で行なっていた。
中で形成される暗黒は、最も、な部分が共通であるがゆえに、通じていると思われた。そこで響いているのは、まだ微弱な鼓動だった。測り知れない深淵にある。永遠に落ち続けているのではないかと…誰も分からない、果てしない、遥か底で。
――おそらく、胎動でもある。彼は、自分の鼓動を聞いていたが。同じ振幅で繰り返した。全く同質。二つのそれは、まるで一つであるが如く錯覚を覚える。
別々に存在している。確実に距離がある。しかしあまりにも異質ではない。
たとえ錯覚とはいえ、彼は差違が無い事に、慄然たる揺らぎをそこで放った。
と、一瞬、鼓動が変わった気がした。違いを求めるように、彼は一層深みへ侵入した。さらに聞き入る。繰り返す。
気づけば、闇の色が濃くなった。存在が彼のすぐ側で、大きく打ち震える。
錯覚に呑まれる――。そう覚る寸前、彼は即座に目を開いた。
「ぐっ……」
発汗していることに気づく。口腔が乾いている。頬に、一滴が伝った。急激に寒さが襲ってくる。
その震えを押さえるように、彼は右手を砂利ごと握りしめると、俄然そこで立ち上がった。
そのとき、少しだけ彼は懸念したが、それもまた何の苦もない行為となった。おそらく、しばらくになるが、別によろけたりはしなかった。足元は問題無く、しっかりと立っている。
既に、意識は完全な状態にあった。
「すぐいける…」
自分を再認識した彼は、前へ歩みを開始した。動き出したと同時に、次から次へ、何かと思い巡らせてしまうのは、したくはなかったが諦めるしかなかった。
そこに、笑みは無かった。
ただ、これからどうするかは決めてあったから、彼の歩調に淀みはない。決まった事ではなく、決めている事だから、迷いは無い。
「俺はイレギュラーか……面白いじゃないか…」
彼自身気がついていたが、一瞬だけ浮かべた笑みは、強がりだった。それを笑うつもりは無かった。
知り得た事に、疑念を孕む余地は無い。現にその一つが起こっている。信じなくて何を信じる? 自分だ。自分を騙すことには、もう意味がない。
時間もあまりないだろう。始動したばかりであっても、確実な動きがある。
それから彼は、歩きながら記憶の糸を手繰っていった。今ある世界とは別の、だが、やはり知っている世界へと光景が広がり、急速に開ける。その中にて、鮮やかに形を成した場所。新しい記憶に綴られた場所へ。
「つくづく…運のない国だな」
つぶやいて立ち止まった彼の姿は、忽然とその場から消えた。
奥深いところだった。誰も寄り付くことがない、人目につかない――人間が寄りつかない場所にある。しかし彼等はおそらく、このような場所でだが、静かに暮らしていたに違いない。細々と、暮らしていたに違いない。繋がる道もなく、深い山々の隙間に隠された、ほんの小さな、小さな魔物の集落地。
その生活は、もしかすると強いられていたかもしれない。だが、平和とはおおむね、そのようなものか。だから満たされることの無い、名ばかりの平和だった…か? 自由を得るための戦いを止め、何があるでもない辺鄙な場所で一生を終える。だがそれを、望んでいたのかもしれない。諦めを少しばかり平和な満足に変えて、彼等はそれで十分だと思っていたかもしれない。
少なくとも――安息の幸せは、知っていたのかもしれない。
このような形ではない、静けさを。
ここはもはや、跡地だった。
「酷くやったものだ…」
陰惨な光景など、見飽きるほど見てきたものだが。そんなものを目の当たりにする道を、歩んでいたのだが。
死体が散乱するそこで、彼は小さくつぶやいた。精悍なる、蒼い人狼。
「また、徹底的だな…」
裏に潜み、日の当たらない場所でたむろする連中と、そう変わりないだろう。何を掲げても、結局そんな輩だったのだ。否定はしない。だが、馴染むことはなかった。
「あればとにかく手当たり次第…というわけか? 何でも…誰でも良いと? たとえ、同じ魔物でも…」
惨状に目を逸らすほど、弱く生きたつもりはない。過酷な場所を通り抜け、今の今まで、進んできた。死体を見ることなど、稀ではない。ただ、状況が違う、あまりに違う。
その場で彼は、それ以上踏み出すことを思いとどまった。もはや、調べる必要は無い。
多量のため、大地に染み込まれなかった体液。不快な色として、水溜りの固まりが残っている、見えるいたる所に。そして側には、事切れている魔物だ。死後数日ほど経っている、物言わぬ躯。
彼等は強い力をもたない、下等な魔物達だった。まさしく、そこらに散らばっている。
「逃げ惑ったか…恐怖に喚いて…」
そこに生き残りは、探すだけ全く無駄と思われた。たとえいたとしても、このような場所に留まるなど、気が触れてでもいない限り、あり得ない。どのみち、いるかも分からない者を探す必要は無かった。手掛りは死体達に深く刻まれ、十分残されていた。
足元近くに倒れている…骨が砕け散っているのだろう、四肢を奇妙に曲げた魔物に屈み込む。
残されているのは、たんなる跡だった。惨たらしい…えぐられ、叩かれ、砕かれた跡だった。
絶命に至ったのは、おそらく、すぐだったろう。しかし、それからも物理的な衝撃は何度となく与えられ…そしてそれは最後、払い、捨てるように投げられた――。そんなところか。
「……」
見るに忍びないものだったが。彼は表情を微動させることもなく、その傷を眺めた。
ほぼ、間違いない。いや、断定して間違い無い。疑うことがあるだろうか。同様のやり方――傷跡を見た。
彼はそれを、追っていたのだから。
「…蒼月様。…いかがされますか?」
背後の気配に、蒼月と呼ばれた人狼は、やおら立ち上がった。後ろは、振り向かないが。
「…このままにしておけば、この者達は野ざらしのまま…このまま風雨にさらされ、徐々に朽ち果てるのを待つだけだろう…」
背後に控える黒い一人は、背に向けて首肯した。全身を忍び装束で包む、彼の配下だった。
「では、我等がこの者達を埋葬致しましょう。蒼月様は、一刻も早く…」
「せめて一人、私もこの手で埋葬していく。…弔いには、ならないだろうが」
「蒼月様……」
蒼月の配下は、背中にとまどいかけて、だが言った。
「本当に…あの御方の仕業でございましょうか…ここまでやるとは…」
問いかけには、やはり振り向かない背中があった。普段のように冷静で、感情の色も見せない声音が、逆に問う。
「何が考えられる? 消息を追って…ここに辿りついた。他に、何が考えられる?」
僅かばかりの、噂と違わぬ情報を追い続けて、彼等はとうとうここまで辿りついた。もはや自分達以上に、その存在について詳しく知る者などいないはず。
行く先々で、非道を繰返している存在がいるのだ。
「…始めるとしよう。時間が惜しい」
「はっ…」
蒼月の後ろで、気配が動いた。
「……。このような事をして…何がある。一体…何を考えている?」
向かったと思われる方向を、仰ぎ見る。死体を引きずったらしい血の痕跡が、まるで長い道のように残っていた。
向こうは、忘れもしない国がある。おそらくは…考えるならば――目的はそこ、だ。
「これは復讐なのか…? 答えは、必ず聞かせてもらうぞ……トランプ」
彼は以前、共に理想を目指していた仲間の名前をつぶやいた。
暗い空間の中を、赤色の明かりが灯っている。その明かりは激しく燃え上がり、揺らめき、黒を払い照らし出す。しかし、光源というよりむしろ、それは輝きの強さを強調している、生命の如き炎だった。そこでは唯一の存在であるように、美しさをともなっていた。赤い色。
「まさか…この時が来ようとは…」
炎より、男性のような低い声がした。揺らめく中で、さらに何かが揺らめいた。それは事実、明かりでもただの炎でもなかったのだ。だがひとつの人影を、その赤色の光で浮かび出していた。
炎は高く設えた祭壇にあって、下方に位置する相手を見下ろしていた。
「その時のために、ここに来たのではないか…?」
返ったのはやはり、男の声。言葉を発した人影は――周囲の暗さに溶けこんで、その炎に今相対する存在は、闇のように黒かった。全身はほぼ黒いローブで隠しており、外貌は定かではない。ただ、目深に被ったフードから、冷笑を浮かべる口の端が、見えるぐらい。
「フフ…。恐れたからではないか…?」
黒い人物の再度の問いかけに、炎は一瞬、まるで怒りを表すように、大きく燃え上がった。
「我等は、お前が考えるような事情でここにいるわけではない…!」
「それが建前なのだろう?」
炎はさらに燃え上がった。激しく揺らめく。激昂のためか、それとも動揺なのか。
「違う…! 我々は…」
「フ、私にはどうでもよいことだ。この私がお前のもとを訪れた理由は一つ…。抗う力などあるまい? おとなしく、手にかかってもらおうか」
男は緩やかな挙動で、炎に向け右腕を伸ばし、手のひらを前に向けた。
「…私をどうしたところで、封印は解かれんぞ!」
「だからどうした? そんなことは分かっている。だからひとつひとつ、断つまでだ。お前達に今、私を止める力などないのだからな」
「――だが、お前を止められる者がいるのだ!」
叫びとなった炎の声に、男は腕をゆっくり下ろすと、その冷たい口元の笑みを明らかな嘲笑に変えた。
「それが勇者と、言いたいのか? …雷光の騎士だと?」
「そうだ! 必ず勇者が、お前を倒す…!」
「フフ…ハハハハハハハッ!」
燃え盛る炎の言葉に、哄笑が闇の中、大きく響いた。反響し、数人が笑っているようにも聞こえる。そして、余韻を残す。
「フフフフフ…」
「何が――何がおかしい!」
男は笑う事を止めると、炎を見上げた。やや上がったフードから、顔が覗く。二十歳を過ぎたぐらいの、鋭い若い男の顔だった。
「私は雷光の騎士など恐れない。たとえ雷光の騎士といえど、我等は止められない…。さあ、覚悟を決めろ!」
男が右腕を上げる。ほぼ同じに、炎が苦悶のうめきをあげた。
「ぐぅおおおおぉ…! お前達の…思うように…なる…ものかぁぁっ!!!」
炎の揺らめきは大きくもなり、小さくもなり…だが、激しい生命という光の輝きは、急速に衰えていくのがわかる。
「…殺しはせん。今度はお前達を封印してやる」
「――オオオオオオ!!!」
やがて炎の声が絶叫となり、男の手のひらが握られると同時、炎は一瞬にして小さくなった。燃え上がらず、揺らめかない。
男が腕を引き戻すと、それは消えて、手繰られたように目の前へ出現する。
「これでひとつ…」
完全に暗闇となった中、拳大の丸い緋色の球体を見て、その男は笑った。
<つぶやき…>
※ここでは自分の文章等を抜き出し、関して実につまらない事をぼそぼそ述べていきます。先のネタばれはありません。
■1より
男は静かに、息を吐く。
名こそ出さないがバレバレな展開が憎いところです(苦笑)。そーですよ彼ですよだって私が書くやつで(以下略)
彼がいるのは、神殿か、何かそれに準ずると思しき建物の跡地だった。
はて…?どのような場所で決闘したのか私覚えておりませんが(馬鹿者)。…違ってます?気にしないで下さい…。ただ、記憶によると…魔方陣はあっても柱は無かったような気がします(苦笑)。…いいんです。きっと画面に見えないところにあるんです。天井もきっとないんです。私はそう思いたい。思っておくから良いのです。些末な事です。
額に馴染んだサークレット
あー、近頃ならばサークレットしてる男性といえば…魔法使い系とか、貴公子系、王子様…もしくはもう変態(笑)といった具合でしょうねぇ。剣士や戦士なんかはほとんどしませんが…彼はある意味、ご身分が高いのでよしですか。
■2…は特に一人で突っ込みたいところ無し。残念(?)
■3より
暗い空間の中を、赤色の明かりが灯っている。
ちなみにここ、あかいろじゃないです。読み、せきしょくです。…ルビは付けてもいいのですが、その場合CSSでつけることになるかもしれません。ブラウザの対応がちと…気になるところです。IE5.5から確か対応…って、私のIE5.01だし(苦)。(※どうやら5.00からだそうですが)カッコでくくってもいいんですけどねぇ。まあルビは、とにかく要望があった場合に検討するつもりです。
完全に暗闇となった中、拳大の丸い緋色の球体を見て、その男は笑った。
ぐわっ!こんな月並みすぎるパターン、本当は好きじゃないんですけど(苦笑)。でもこんなの世の中にごまんとあるのです。気になるのはたぶん本人だけ…な事を祈るばかり。
もどる